Back To School Days
旅行前にやっぱりこのことを書いておかないと。
先週の土曜日はまた早稲田でアカデミックな休日を過ごした。
英語の授業は前期だけの授業なので最後の授業。先生はいつも生徒のおとなしさにあきれているけど、この日は珍しく議論めいた状況になり、私も積極的に発言した。・・・しかし、やはりなかなか英語が出てこなくて言いたいことがうまく言えず、もどかしい思いであった。
哲学の授業ではキルケゴールの話。この授業は何年もかけて古代からずっと遡る形で進んでいる。この前期はデカルトの話だったはずが、なぜかずいぶんととんでキルケゴール。先週デカルトとほぼ同時代のパスカルのお話で、そのパスカルと非常に似ている、ということで一気にキルケゴールにとんだみたい。後期からはスピノザに戻るそうです。
さて、その後はこの哲学の講義の懇親会兼ゼミナールで、大学近くのアングラなカフェに移動。今回の発表者はこの私。
前の週に先生に質問をしたところかえって混乱してしまい自信喪失していたが、なんとかまとめることができた。
昨年「哲学塾 もしもソクラテスに口説かれたら」という土屋賢二さんの本を読んだのんだけど、その中のソクラテスの話を題材に、「私」を考えてみる、という大それた試み。
ソクラテスは2000年以上昔の人だから、「私」=「魂」だ、なんてことを言う。フツウの現代人なら胡散臭いと思っても仕方ない。脳科学がこれだけ発達している時代に「魂」だなんて。哲学者たちも脳科学を否定しない。でも“脳科学は脳科学””ソクラテスはソクラテス”みたいに二つを別の次元のものとして考えようとする傾向がある。
それこそ哲学が今、なんだか宗教めいた怪しい学問として、まったく人気がない原因ではないだろうか。
私はソクラテスの考えていたことを、もっと現代の事情に即して解釈する必要があると思うのだ。何よりソクラテスならそうしてほしいと望むだろうと思う。
そういうわけで、非常に稚拙ではあるけれど、現代的にソクラテスの心身二元論を解釈した結果、「私」っていうのは時間と似たような捕らえにくさをもった概念という気がしてきたのだ。カントが「アプリオリに与えられた内観の形式」と言った時間のようなもの。
発表後は「若いのによくがんばった」とか言うほめ言葉をいただき、なんだか恥ずかしかった。他の参加者は平均70歳というおじいさん達がほとんどだけど、皆さん本当によく勉強されていて、私みたいに聞きかじったことでダイナミックな結論を無理やり引き出すような勉強法は改めないと、と反省しきりだった。
たった3枚程度の発表だったけど、なんだかここ1ヶ月くらい十分すぎるほど振り回された。でも学生に戻ったみたいで悪くはない。
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